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〜 平成14年5月号 JCB 「THE GOLD」インタビュー記事 〜

自分ができるのはただ心を開いて歌を歌うことだけ

ボーカリスト 鈴木重子



── 一昨年出された『ジャスト・ビサイド・ユー』は、日本ゴールドディスク大賞部門賞を 受賞され、ニューアルバム『マイ・ベスト・フレンズ』も好調な売れ行きとか。
鈴木 おかげさまで。『マイ・ベスト・フレンズ』は、 オリジナル曲もたくさん入っていますし、「浜辺の歌」とか喜納昌吉さんの「花」など、私の好きな 日本の歌を取り入れて、より自分らしいアルバムができたかなと思っています。

── さて、鈴木さんは、小さいころから、いろいろなお稽古ごとをなさったとうかがいましたが。
鈴木 そうですね。かなり従順な子どもだったようで、 「行ってみる?」って言われると「うん、行ってみる」という感じで、イヤだという考えがあまり なかったのではないかと思うのです。
 やりたくないときは、お稽古の先生が見えると家中逃げ回って、犬と一緒に犬小屋に隠れたりとか。 まあ、そんなふうにマイペースだったから続けられたのかもしれないですね。



── 何種類のお稽古ごとを?
鈴木 ピアノ、お習字、算盤(そろばん)、バレエ、お茶、 お能、スイミング・・・・・・。多いときには四つか五つくらいかけもちして、一週間のうち、ほとんど 毎日何かやっていました。

── その中で、やっていてよかったと思われるものはありますか?
鈴木 ほとんど全部ですね。どれもみんな、今の自分に すごく意味があると思うんです。例えば、何か新しいことを始めようとするときに、ちょっとした 下地があるためにすごく入りやすかったりとか、あのとき習ったあれにすごく似ている、と思うとき、 それをすすめてくれた両親にとても感謝します。

── 例えば?
鈴木 英語をずっと習っていたのですが、それは間違いなく 現在の生活に役に立っていますし。お能のお茶を通して学んだことも、自分の精神の深いところに 繋がっている。
 お能やお茶のお稽古に行くと、毎日毎日、本当に一センチぐらいの微妙な手の動きを直されて、 「なんでここに手がないといけないんだろう」とか思うわけです。けれども、やっているうちに、 あるとき、ふと「あ、そうだったのか」と思う瞬間がくるんですよね。そこで見つけた何か、心の 奥深くにある本質みたいなものが、実は、ジャズのような音楽を歌うときにでも、自分にとって すごく意味があるということに、最近になって気がつくようになりました。

── そして、勉強のほうも優秀で東京大学法学部に進まれた。学生生活はいかがでしたか。 周りに同じくらい頭のいい人がいっぱいいるのって、いったい、どんな感じなのでしょう。
鈴木 とても不思議な感じでしたね。なんだか、 人の縄張りの中に迷い込んでしまった猫のような。今まで自分なりに一生懸命勉強して、ようやく 大学に入ったと思ったら、自分と同じか、もっとよくできる人たちの中に入ってしまって、もう一回 そこで競争し直さなければいけないと気づいたんです。それも今までよりさらにハードな競争を することになる、と思ったときには愕然としましたね。もうこれ以上、闘いたくないという気持ち でいっぱいでした。
 大好きな語学を勉強できる教育課程は楽しく過ごしたのですが、三年になり、本業の法律を学ぶ 段になってからはちょっと苦痛でしたね。本を読んでも、すぐ眠くなってしまって・・・・・・(笑)。

── サークルは音楽系のサークルでしたね。そこではボーカルを?
鈴木 いえ、一番はじめはキーボードをやっていて、 大学二年のときに歌い始めたんです。
 あるとき、私のバンドでボーカルの男の子が歌えないような高いキーの歌を選んでしまい、 女の子だったら歌えるだろうということで、キーボードの女の子二人がジャンケンをして 決めたんですね。

── 運命の分かれ道。
鈴木 そうですね、あれがなければ今ごろ全く違うことを していたかもしれないと思うと、本当に不思議な気がします。驚いたことに、私の歌は好評で、 その後、先輩たちのバンドから声をかけていただくようになって、それから歌い始めたんです。

── そして大学卒業後も司法試験の勉強を続け、そのかたわら、少しずつクラブなどで歌い始め られたんでしたね。
鈴木 はい。幼いころから歌を歌うことは好きで、母に せがんで声楽のレッスンを受けたりしていたのですが、まさかそれを職業にできるとは、 考えてもみませんでした。



── では、いよいよ、ブルーノートの舞台に立ったときの話を聞かせてください。私たちから見ますと、 あんなすごい所にどうして出るようになったんでしょう、っていう気がしますが。
鈴木 ですよね。私もどうして出るようになったんだろうと 思ってるのですが(笑)。一枚目のアルバムをニューヨークで録音しながらそのお披露目の発表 ライブをどこでやろうかという話をしていたとき、アメリカ人のプロデューサーが「ブルーノート なんていいんじゃない?」なんて言い出したんです。「そんな、冗談でしょう」と思っているうちに、 気がついたらステージに上がっていた、という感じでしたね。

── 『プルミエール』というアルバムのときですね。あがりませんでしたか?
鈴木 もちろん緊張していたのですが、いざステージに 上がってしまったら、なぜか落ち着いてきました。
 「幽霊の正体を見たり枯れ尾花」ということばがありますね。ちょうどあんな感覚といったら いいんでしょうか。「恐れ」ってそういうものだと思うんですけれど、あれほど自分が強く 憧れていて、だからこそ怖くもあったこと。その正体が、実はこういうことだったんだ、 ということが体でわかった。そして自分がそこで何をすればいいのかわかった。
 自分がステージに立っていて、後ろではミュージシャンの人が演奏してくれて、お客さんが 聴いていてくれる。自分ができるのは、そこでただ心を開いて歌うことだけ、というすごく シンプルなことに気づいたんです。そうしたら、とても安心しました。そうか、音楽をやるって こういうことだったのかと。
 私が神様のように尊敬しているミュージシャンたちも、この同じことをたんたんと繰り返して きたんだなと思えるようになって、それは大きな発見であると同時に、ミュージシャンたちを もっと尊敬できるようになりましたね。
 彼らは神様だからすごい演奏ができるわけではなくて、みんなそれぞれ普通の人で、普通の人が そういうことができるようになったんだと思ったときに、素晴らしい友達がたくさんできたような 気がして、とても幸せな気分になりました。

── それはおいくつのときでしたか?
鈴木 二九歳のときです。

── 最後に将来の夢をお聞かせください。
鈴木 夢、そうですね・・・・・・。私は夢とか希望とかを あまり持ってなくって、なにしろ明日のことさえ、あまり考えていないくらい(笑)。
 今という瞬間を精一杯味わって、目の前にあるものを、ひとつひとつよく見て、出会った人や 出来事に、いつも感謝して生きていったら、それで十分かなと思うんです。
 そういうふうにして生きていれば、どこに行っても、何をしていてもいい。自分でありさえすれば いいと思います。今は歌を歌っていますけれど、もしかしたら明日はお母さんになるかもしれないし、 あさってはお花屋さんになっているかもしれない。そんな自由な気持ちで、自分に正直に生きて いけたらと思います。





〜〜読売新聞夕刊 毎週水曜日「CITY LIFE」内に連載されていた
SHIGEKOエッセイ「そよ風とハミング」の最終記事〜〜

〜 平成13年7月 〜

No.40 ふるさと


              ありがとう、ありがとう    長い間、楽しく書かせていただいたこのコラムも、今回が
  最後になりました。去年の秋から毎週、大好きな曲たちと
  いっしょに、こころに浮かんだ想いを聞いていただけるのは、
  何と幸せだったことでしょう。日ごろの生活のなかでふと
  感じる、あたたかさや静けさ、きらりと光る発見。ゆっくりと、
  それをことばにつむいでゆく時間は、私自身にとって、ほん
  とうに実りの多い、ゆたかなひとときでした。
   このコラムをとおして、多くの方々と、すてきな出会いを
  持つことができたことを、心から感謝しています。連載の
  あいだじゅういただいた、たくさんの、たくさんのおたより。
  はげましのことば。ひとつひとつが、何にも代えがたい、私の
  たからものです。冬のさなか、高い星空を見上げながら、夏の
  風にざわめく、木々のささやきに耳をかたむけながら、こと
  ばをつづった一年間。ほんとうに、ほんとうにありがとう
  ございました。
   今回、ご紹介するのは、最後の回にはきっとこれを、と
  思っていた、私の大好きな曲です。「ふるさと」。子供の
  ころから親しんだ、美しいうたです。だれもが、胸の奥深くに
  しまっている、やさしい故郷のイメージ。人生という、長い
  旅路の途中で、いくども思い出すその風景を、たおやかな
  歌詞にたくした、すばらしい曲です。私たちが生まれたところ。
  私たちが、いつか帰りつくところ。そんな、なつかしい場所に
  導いてくれる、みちしるべのようなうたです。
   あした。今日とそれほど変わらない、けれども、確実に
  何かがちがう、新しい日。これからも起こるできごとを
  いとおしみながら、一歩ずつ、のんびり、あるいてゆけたら
  と思っています。またどこかで、お会いできることを、とても
  楽しみにしています。
                         ボーカリスト・鈴木重子
                                (おわり)

   ★故郷(ふるさと) 岡野貞一作曲、高野辰之作詞。収録CDに
  スーザン・オズボーンの「和美」(ポニーキャニオン、英語詩)、
  鈴木重子「Just Beside You」(BMGファンハウス)など。




〜平成14年4月16日 火曜日 読売新聞〜

空間を包む 心ほぐす歌声

 ビブラートのかからない歌声が都内のライブハウスの空間を温かく包み込む。 その声は格別に美しかったり、歌唱法もテクニックが際立ったりしている訳ではない。 しかし、聴き手の心をほぐし、緊張を解く。まるで自分の部屋にいるように、 くつろいだ気持ちにしてくれる不思議な力がある。
 東大出身のジャズ・ボーカリストとして注目されてきた。しかし、元々歌唱法は、 ジャズ歌手に多い技巧を尽くすタイプではない。同時にここ数年は取り上げる曲が 幅広くなり、もはやジャズというジャンルに縛られない。歌うということを、ただのびのびと 楽しんでいる感がある。
 この日の選曲も実に個性的。「あなたのそばに」や「レイン・フォールス」などの自作曲は もちろんだが、スティングの「フラジャイル」と童謡の「春が来た」も登場した。この二曲が 共に歌われる公演がほかにあるだろうか。人間のもろさを嘆く「フラジャイル」は戦火の 絶えない現代社会へのメッセージ、「春が来た」は季節にふさわしい一曲。選曲には 必然性が感じられ、違和感はなかった。
 圧巻だったのは、「とりのうた」。歌詞はなく、「アアアー」といった鳥の鳴き声のような 叫びでつないでいく。それだけなのに、胸が揺さぶられ、空を飛んでいるような気持ちに なった。アンコールで観客と一緒に合唱した「ふるさと」もしみじみと胸にしみた。
 余分な装飾のない、素直な歌声とほのぼのとしたキャラクター。疲れ気味の現代人に 、この人がなぜ求められているのか改めて確認した一夜だった。
                                         三月二十九日、東京 STB139スイートベイジル。



〜平成14年2月28日 木曜日 毎日新聞〜

企画特集 21世紀を生きる子どもたちへ







〜INTERNET インタビュー記事〜

      “シーバス社創業200周年記念オークション”

      Weekendインタビュー - MSN ピープル

      鈴木重子 INTERVIEW
        ■マギィ-2001年10月号 掲載

      音楽シリーズ - エンターテイメント グー



〜CREO〜

2001,No.1 叶_鋼ヒューマン・クリエイト発行

   シンプルにありのままの自分でいること

     ヴォーカリスト 鈴木重子

 ニューヨークの名門ジャズ・クラブ「ブルーノート」──ここで日本人初のデビュー・ライブを行い、 現在では世界各地の檜舞台で活躍している鈴木重子さん。その華々しい活躍に至る道のりには、 人生の大きな分岐点があった。
 実は東京大学に入学し弁護士を目指して研鑚しながらも、ヴォーカリストに転向、という通常では 想像もつかない異色な経歴の持ち主である。そのきっかけと動機はいったい何だったのか? そこには、人生における仕事とは、幸福とは何かを考える素敵なヒントがたくさんある。


幼いころは稽古事三昧

 わが家の教育方針は、「お金よりも、自分そのものが豊かであることが財産。普通の勉強だけでなく、 礼儀を身につけたりセンスを磨くことが大事。そのためなら、習いたいことは、いくらでもさせてあげる」 というものでした。
 三歳からピアノを習いはじめ、華道、茶道、能楽、クラシック声楽、水泳、絵画、バレエ、そろばん等々、 数知れず。まるで、アイドル歌手なみに忙しい毎日でした。どれも押しつけられたものではなく、自分自身が 興味を持って習っていましたから、抵抗なく楽しみながら、稽古に通っていました。
 実際、稽古事で培ったものが、現在の資産になっています。特に最近になって、能楽がプラスになっている ことがわかりはじめました。
 私には、ほかの国の人たちと違う独特の「間」があることに気がついたからです。知らず知らずのうちに、 歌っているときより、歌っていない空白部分、間奏や音と音の間などの「間」を、絶えず大事にしているのです。 これは、日本人の伝統的な間の感覚なのでしょう。その源流をたどっていくと、「わび」「さび」といった感覚に つながっていくのではないかと思います。

最初の夢は、総理大臣

 特に母が、男女平等という考えを持っていて、「女性であっても、男性同様、将来何にでもなれる」と 聞かされて育ちました。おかげで、私の夢はとてつもなく大きく広がりました。
 今考えるとすごく大きな夢ですが、最初は総理大臣になりたかった。女の子らしくお姫様にも憧れたのですが、 日本ではプリンセスになることはできません。だったら、日本のいちばん偉い人と言えば、総理大臣──テレビ にもたくさん出られるし、「よし!これになろう」と思ったのです。
 物心がついてからは、翻訳家になりたいと思いました。これは、津田塾大学英文科を卒業した母の影響に よります。母は父の会社の仕事を手伝う傍ら、翻訳の仕事もしていました。翻訳の楽しさについて聞かされて いましたから、自然に興味を持つようになりました。小学五年生から英語を習い、翻訳本も読みはじめました。 ほかには、心理学者、外交官になりたい、という夢を思い描いたこともありました。


クラシックから軽音楽へ

 幼いころはずっと「歌がへただ」と思い込んでいました。小学五年生のとき、合唱部に体験入部して、 一変してしまいました。先生が「いい声ね。それに、いい発声だわ」と誉めてくださったのです。それからは 歌うことが楽しくなり、中学二年生ごろからは、クラシック声楽を学びました。
 音楽については、自宅ではもっぱらクラシック一辺倒でした。それ以外には、家庭教師の先生から参考書と 一緒に渡されたオフコースの曲と、父がファンだったビートルズの曲を耳にする程度でした。
 高校に入学してから、軽音楽部で女性バンドを結成しました。そこで、ロックやフュージョン音楽にも 接するようになり、カシオペアの曲などを演奏していました。メンバーには、キーボード以外は経験者が いませんでした。それでいちばん背が高く指が長かった私は、ベース担当にされてしまいました。



東京大学入学

 小学校のときから勉強は好きでも嫌いでもありませんでしたが、どちらかというと成績はいいほうでした。 基本的に、予習・復習を欠かさずコツコツやるタイプでした。
 高校三年生のとき模試で好成績をとれたので、先生からも「これなら東大文Tに合格するかも」と言って いただいた。せっかくだからやってみよう、と受験したところ、幸運にも合格できたのです。
 入学するとまわりは、司法試験を目指して勉強する人たちばかりでした。でも、私はもともと弁護士に なりたいという夢を持っていませんでした。といって、これという目標も思いつかず、まわりの空気にのまれ、 弁護士を目指すことになりました。弁護士はもちろんすばらしい仕事です。しかし、弁護士になって これをやりたいという大きな目的が見出せず、法律の勉強が自分に合わないと感じていました。
 当時は「自分が何をやりたいか」というより、「自分が何をやりたいと言えば、恥ずかしくないか」 という考えにとらわれていました。そんなことを考える暇があったら、ほんとうはいったい何に なりたいのかをよく考えるべきだったのです。
 もともと争い事が苦手な性格なのです。勉強でも、点数がつくものは苦手でした。もちろんいい点だと、 皆も喜んでくれるし、自分も達成感はあります。でも、「競争して人に勝つ」という感覚がどうにも嫌で、 大学受験のときに「東大のような立派なところに入ったら、今後は競争から解放される」と考えていた のです。しかし、入ったらもっと大変なことになってしまって、こんなことなら違う大学に行けばよかった、 と気がついたときには、後の祭りでした。

ジャズを歌いはじめる

 そんな毎日のなか、私の楽しみは歌うことでした。大学二年生のときに学園祭でヴォーカルとして ステージに立ち、それ以後、いくつかのバンドのヴォーカルをかけもちするようになりました。
 おもに、ポップスや当時流行っていたスティービー・ワンダーやホイットニー・ヒューストンなどの 「ブラック・コンテンポラリー」と言われる音楽を歌っていました。でも、だんだんと「何か少し違う」 と思いはじめました。それは、私がその歌手のマネをして歌っていたからでした。自分にむいていない 人のマネをして歌っていたからでした。自分にむいていない人のマネをしていても、いつまでたっても うまくならないと思ったのです。それで、歌の基本であるジャズを歌おうと思いました。
 ジャズについては、ジャズヴォーカリストの第一人者、村上京子先生に教えていただきました。 村上先生には、歌だけでなく、ヴォーカリストのあり方、生き方も教わりました。
 すごく印象に残っているのは「夜眠るときに、その日大好きな歌を歌って完全燃焼して幸せだったから、 そのまま明日目が覚めなくてもいい」という言葉です。
 この言葉を聞いたときに、それでは、自分はどうだろうと考えました。今自分が死んでしまったら、 あの本のページを読み残してしまったとか、今日はこれだけしか勉強ができなかった、とか思うかも しれない。自分は弁護士にも、何にもならずに終わって、つまらない人生だったな、と思うだろう。 「自分はこのままでいいのだろうか」という思いが走りました。


気がついたらヴォーカリストに

 しかし、私は頭が硬かったので、とにかく司法試験に是が非でも受からなければと思っていました。 でも、歌は続けたかったのです。それで、大学卒業後、勉強の傍らバイトがわりに、ジャズ・クラブなどで 歌うようになりました。
 当初は勉強が九、歌が一の割合でやっていました。しかし、気がついたら比重は逆転して、毎月 コンスタントに仕事の依頼が入り、生活するのにじゅうぶんな収入をいただけるようになっていました。 司法試験のほうは、三度挑戦しましたが、合格通知は届きませんでした。
 自然と「無理に弁護士に固執しなくてもいいかな。歌を歌って生きていくほうが幸せなのではないか」 と思うようになり、それからは勉強をやめ、歌に専念しはじめました。
 この歌の世界は、明日からプロになります、といってなれるものではありません。少しずつジャズ・クラブ などに出演場所をいただき、お客様やミュージシャンの方に知ってもらいながら、場を増やしていかなければ なりません。こうして、卒業後五年間ジャズ・クラブをまわって、歌い続ける生活を送ることになりました。


転換期 ── 二人の私 ──

 大学を卒業するまで歩いてきた道は、一般的にエリートコースと言われるものでした。その道をAとすると、 私はAをひたすらまっすぐに歩いていくつもりでした。でも、気がついたら、まったく違う歌の道Bを 歩き出している私がいたのです。
 Aを横目で見ながらBを進んでいる期間は、Aこそが正しい道で、Bにいながらも、Aの世界しか 見えていなかった。その期間は、今までの自分を改めて見つめ直し、自分はどんな人間なのか、 何が必要なのか、何がほんとうに幸せなのか、何のために生きているのか、といった疑問がつぎつぎに 沸いてきました。そしてそれに対して、もう一人の自分が答を出してくれる、という感覚でした。
 混沌の中にいる自分を、もう一人の自分が見ている感覚でしょうか。まったく違う二人の自分は、 どちらも私自身でした。そして、その二人がちょうど交代する時期だったのかもしれません。最後の瞬間、 Bの私は、Aからはるか遠く離れてしまったことを実感し、Bの世界をはじめて見まわして、ここも すばらしいところだし、この道を進むことが自分の幸せにつながる、と思うようになったのです。
 ある意味では、すごくたいへんな時期だったのかもしれません。しかし、私は本来のんきな性格なので、 自分を観察している自分を意識したときに、ものすごく面白いな、と思っていました。


音楽は楽しむためのもの

 具体的にヴォーカリストになりたいと思ったことは、なる瞬間まで一度もありませんでした。 なぜならば、芸術家になれるのは一握りの人たちだけで、自分がなれるとは思っていなかったからです。 それに、仕事となると、人と競争し、プロフェッショナルでなければならない、と思っていました。
 大好きな音楽で人と競争することは、私にはつらすぎました。楽しいはずの音楽を、毎日毎日 うまくなるために、努力して努力して、という道には進みたくなかった。音楽は、ただ楽しむものに したかった。そういう意味で、プロになろうという考えはありませんでした。それに、音楽で 食べていける才能がある、とも思えませんでした。
 今も才能があると思っているわけではありません。しかし、自分が歌っていくうちに、才能の 有無は問題でもないし、プロフェッショナルにならなければ、と気負うこともない。そう考え方が 変化し、今も歌い続けられています。

夢のエッセンスの実現

 夢見たわけではないこの仕事をすることになり、反面、ある意味では、自分がこれまで 夢見ていた仕事の一部分が、今の仕事の中で実現されているのです。
 たとえば、総理大臣はたくさんの人とコミュニケーションをとる仕事。心理学者は、人の心に ついて考える仕事。翻訳家は、言葉と言葉の懸橋になる仕事。外交官はたくさんの国に出向き 仕事をする。それぞれの夢の一部分が、ヴォーカリストとして、各地で人の心についていろいろな 国の言葉で歌い、メッセージを伝えている今の仕事の中に、エッセンスとして実現されています。 やはり夢を持つということは、すごいことだ、とつくづく実感します。
 これは私にかぎらず、誰にでも当てはまります。夢見たこととそっくり同じでなくても、どこか一部分、 夢のエッセンスを実現しているはずです。もしくは、実現するための過程の途中にいるのに気づくと 思います。
 この仕事をはじめるときに「これからの人生は永遠の夏休み」と思いました。一学期が終わり、 明日からは夏休み、という自由な気持ちでした。
 もちろん仕事をしているわけですから、何もしないという意味ではありません。ただ、常に 自分の心に耳を傾け、自らが選択して、楽しんでいるから「夏休み」なのです。
 たとえば、何日も仕事が続いて睡眠時間が少ないときもありますが、仕事に行けば大好きな歌が 歌えるし、新しい人に出会えて楽しい。そう考えると、すべてが楽しく嫌なことはありません。 けっきょくは、物事に対するとらえ方や考え方だと思います。


それぞれの国のジャズ

 ジャズはもともとアメリカで育った音楽ですが、世界各地に渡り、各国の特性、空気感、センスなどが ミックスされ、独自のジャズが生まれました。
 同じアメリカでも、ニューヨークと西海岸では、それぞれ違うジャズがあります。フランスだと 知的でウィットやユーモアのあるジャズがあります。北欧だと、少しのどかで深い感じのジャズに なります。もちろん、日本にも日本特有のジャズがあります。
 たとえば、日本とニューヨークを比べてみると、一緒に演奏するミュージシャンとはじめに交わす 言葉が、「よろしくお願いします」と「How are you doing?」(元気?)と違います。挨拶ひとつですが、 言葉の持つ空気が違いますから、その後の流れも音楽も変わってきます。
 私はもともと言葉がすごく好きで、言葉のまわりにあるニュアンスをすごく大事にしています。 ニュアンスなしで話をするのはすごく寂しいものです。だから気がつくと、ゆっくり話しているかも しれません。言葉には、話している人の文化や、考え方や感覚といった背景があります。たとえば、 日本には相手によって敬語など言葉を使い分けますが、英語では、相手の呼び方は、「あなた」も 「おまえ」も「君」も同じです。そういった違いからも、空気感がつくられているのでしょう。

「ブルーノート」

 幸運にも、一九九五年の秋、ニューヨーク「ブルーノート」で歌う機会をいただきました。 一枚目のアルバムをニューヨークで録音していたときに、お披露目をどこでやろうか、という話を 皆でしていました。すると、せっかくやるんだったら、このメンバーで「ブルーノート」でやると いいんじゃないか、という話が雲のように湧きあがり、話はどんどん進み、日程が決まっていました。 それはまるで、人ごとのようで、信じられないうちに、ステージに立っていました。
 神様みたいなミュージシャンが出演するジャズ・クラブに、まさか自分が出られるとは考えても いなかったので、すごく緊張しました。でも、ステージに上がると「あっ、これは日本の ジャズ・クラブと同じだ」と思って、安心できたのです。
 国が違っても、どれだけ大きいジャズ・クラブであろうとも、お客様がいて、自分が歌うという 図式は同じで、根本は同じだ、とわかったからでしょうか。客席との壁がなくなったのを感じ、 わけもなく嬉しくなって、自然と笑顔がこぼれました。するとお客様からも笑顔が返って きたのです。それで「ああ、これでいいんだ」という感覚が、自分の中に広がったのです。
 誰もが持っている不安は、あるようでないものなのです。ステージの上にいる私が不安な 気持ちを持っていても、その気持ちを含めてのコミュニケーションをしているのだから、 これでいいんだ、と思えたのです。怖がる必要もないし、怖くてもいいんだ、と気持ちが 楽になり、緊張感と充実感のある、楽しくすばらしい時間を過ごすことができました。


今を大事に生きていく

 今後の抱負を考えるよりも、その日のこと、もっと言うと、今、この瞬間のことを考えて 大事にしています。そうすると、つぎにやるべきことが自然と自分のところにやってくるのです。 特別宗教を信じているわけではありませんが、たとえば、自然を動かしたり、人を出会わせたりする 力みたいなものが神様の采配ならば、それに身をゆだねておまかせするという感じでしょうか。 自分が自分の場所で、瞬間瞬間を大事に生きていれば、必要なものは、必要な時期にやってくるの だと思います。
 歌には、そのときの自分のすべてが現れます。だから普段から誠実に、そして人に優しく生きてこそ、 ステージでいい音を出すことができる、と信じています。ある意味では、うそがつけない 厳しい世界かもしれません。でも、歌は私自身の生活や生き方と切り離すことができません。 歌は、私にとって空気みたいなもので、いつも共にあり、どこででも歌える。今もこの先も ずっと歌っていくでしょう。
 歌うこと以外に、執筆の仕事や、映画に出演するなど、違うジャンルの仕事も増えてきました。 いろいろな方法で自分を表現でき、たくさんの人に会うことができる、とても楽しい毎日です。
 そんな日々を過ごし、年齢を重ねるごとに、自分の表現したいことがどんどんシンプルに なっています。日々の何気ないこと、たとえば、星がきれいだなとか、雨が降っているな、 といったような、まるで子供のようなことを思いつくことが多くなっています。「大人なのだから といって、無理をして大人らしいことを考えなくてもいい。自分はありのままの自分で、ただ、 ここにいてもいいのではないか」と思うのです。
 あまり具体的な目標はないのですが、強いて言うならば、「うまい歌」より、「いい歌を歌う」 歌手になりたいです。


 前に前に進むばかりがすべてではない。自分自身のいるべき場所を大事にし、そこで自分自身を 磨き続ける。そうすることによって道を切り開く方法もある。
 「歌っているときは特に何も考えていないんです。たとえるならば、お風呂に入ってリラックス しているような気分です。歌いながら、自分の感覚、考え、感情をたどり、自分の深くて気持ちが いいところに降りていくような感じです。聴いてくださる方にもそんな気分でリラックスして いただけると嬉しいですね」とおっしゃる鈴木さん。その柔らかく優しい歌声の根底には、 強い心と美しい魂がある。今後も、ますますご活躍され、歌声が響き続くことを願っています。

   (担当 藤原直美)
   (撮影 山崎洋介)




〜全国共通版「Japan now guest information」〜

〔特集〕新しいミレニアムをひらく

(全国のホテルにおかれています。)

表現の場は変わっても、いつも私はひとつ

鈴木重子◎東京・ボーカリスト

司法試験を目指していた東大生から
一転、ジャズの世界へ飛び込んだ
ひとりの女性ボーカリストがいる。
ニューヨークの有名ジャズクラブでデビューし、
幅広い活躍を続ける彼女の夢とは何か。



 歌、映画、舞台、エッセイ、TVやラジオ出演と活動の場は次々と広がっていくが、
鈴木さん本人はあくまでマイペースが基本。



透き通るような歌声が最大の魅力。
ストレスに疲れた人々の心を、鈴木さんの声が癒していく。


1995年9月、ニューヨークの伝説的ジャズクラブ「ブルーノート」で デビューを飾る。


広い場所に出れば、
それだけ自分の世界も広がって、
楽しいこと暖かいものを、
もっと多くの人と分かち合えるはず。



 1995年9月、ジャズの世界に身を置く者なら、誰もが憧れる ニューヨークの伝説的ジャズクラブ 「ブルーノート」のステージに、日本から来たひとりの女性ボーカリストが立った。世界中の ジャズミュージシャンが、1度はそこに上がりたいと熱望するステージ上で、自らの緊張をほぐす ようにニッコリと笑った彼女の名は、鈴木重子。この時点で、彼女の名前を知っている者は、 日本の音楽関係者でさえ少なかっただろう。なぜなら、その日が彼女のデビューライブで あったからだ。
 「私自身、ステージに上がる直前まで、これは何かの冗談にちがいない、と思っていました。 ジャズの神様のような人たちが、演奏しているステージに自分が立つことができるなんて、 信じられなかった。でも、いったん上がってしまえば、日本のライブハウスで歌うのと、なんら 変わりはないんだと気づきました。」
 その日を境に、一気にその名を知られるようになった鈴木さんだが、その経歴がまた人々を 驚かせた。出身は、東京大学の法学部、しかも数年前までは司法試験を目指していたというのだ。
 「司法試験を目指したのは、朝早く起きなければならない仕事は自分には無理だろうと思って、 選んだものでした。その一方で、全くの趣味でジャズをやっていて、少しでも歌うことが うまくなればと、歌のレッスンを受けていました。」
 大学は卒業したものの、司法試験には合格できずにいた頃、鈴木さんはアルバイト代わりにと、 あるジャズクラブで歌わせてもらう機会を得た。
 「ジャズはひとりで歌っていただけでは、うまくなりません。ミュージシャンの人たちと いっしょに演奏することがどうしても必要です。勉強にも疲れていたし、気分転換のつもりで ステージに上がりました。」ところが、鈴木さんのステージは思いのほか好評で、「来月も また歌ってほしい」と頼まれるほど。「聴いてくれたお客さんが、私の歌をとても喜んで くれたのが何よりうれしかった」という鈴木さんだったが、ステージを見ていた別の店の人から、 「ウチの店でも歌ってほしい」と次々と依頼が来るようになった。気がつくと、毎月ある程度の ステージをこなすまでになっていたという。
 「私は歌っている時が、一番楽しいんです。好きな歌を歌って、それを聴いてくれるお客さんも 喜んでもらえるなら、無理して勉強を続けていく必要はないんじゃないかと思うようになりました。」
 司法試験はきっぱりとあきらめ、歌の世界で生きていくことを選択した鈴木さんだが、 有名になりたいといった気持ちとは無縁だった。
 「これからは競争しなくていいし、毎月が日曜日だ!と喜んだくらいですね。楽しい歌を歌って、 お客さんとその喜びを分かち合うことができるだけで十分でした。」
 ところが、現在の所属事務所の社長が、ライブを見に来た日から、鈴木さんの運命は 大きく動き始めた。正式にスカウトされ、CDデビューが決まり、そしてブルーノートでの ライブへと、とんとん拍子に話が進んでいったのだ。
 「CDが出た時、最初は自分の声がスピーカーから聞こえてくるのが不思議でなりません でした。一番感動したのは、私の歌声にこれほどまでに素晴らしい音を加えてくれた ミュージシャンの演奏です。自分の部屋で聴きながら、自然と涙が止まらなくなりました。」
 華々しいデビューを飾った鈴木さんの活躍は、それ以後も続くことになる。透きとおるような 歌声は、ジャズファン以外からも多くの支持を集め、2000年9月までに、5枚のアルバムを リリースする。
 「ステージというのは、演奏する側とお客さんとが、いっしょに作っていくものだと 思います。ステージに上がった瞬間、もし両者の間に壁のようなものができているなと 感じても、私の方から壁を開けるようイメージすると、ぱっと空気がなごんで コミュニケーションが取れるようになります。そうなれば、ちょっと失敗しても、 ゴメンねと言えば、お客さんも笑って許してくれる。演奏する側の中心にいる私がどう 感じるかで、すべての空気が変わってしまう。」
 2000年10月には、ニューヨークでのデビュー以来、二度目の海外公演として台湾ツアーを 行った。
 「今回のツアーは、台湾のプロモーターの方からの依頼でした。台湾の人たちは、 日本人と顔が似ているせいか、とてもフレンドリーで、気さくな人ばかりでした。私も 中国語を少し覚えていって、最初に、中国語で簡単な挨拶をしたところ、大拍手で 迎えられてしまいました。それだけでもう、アンコールに応えて帰らないとまずいなと 思うくらい。ステージも大成功で、台湾には、また行きたいと思っています。」
 そのプロフィールのせいもあってか、歌以外の世界からも注目され、CMへの出演、 エッセイの執筆、テレビのジャズ番組の司会を努め、1998年には映画『火星のわが家』 に主演し、女優としてデビューを飾った。
 「脚本の方が、私をモデルに書いてくださった役だったし、もともと演技など できませんから、映画の中の私が、そのままの鈴木重子だと思っていただいて いいくらいです。」
 2001年春には、今までに書いたエッセイなどを収録した初の単行本も刊行される 予定で、ミュージカルへの出演依頼も舞い込んでいる。
 「自分は、とにかくのんきな性格で、まり先のことを考えるタイプでは ありません。でも活躍の場が広がることは、それだけ新しい自分が見えてくるので、 機会があればどんどんチャレンジしてみたいと思っています。」
 ジャズの世界への転身も、「気がついたらそうなっていた」と語る鈴木さんは、 自分からは何もしなくても、周囲からの様々なアプローチに応えながら、 そのすべてが「あるがままの自分」になっているという。
 「自分が何よりも楽しい歌が歌えて、毎日空をながめながら過ごして、お昼寝 できれば、それが最高の人生じゃないでしょうか。」
 なんともうらやましく思えるが、少しだけ生き方を変えてみれば、誰もがそんな 道を選べるのかもしれない。



女優としてデビューを飾った映画『火星のわが家』(ビデオ・DVD発売中)。


〜Agora エグゼクティブのための知的情報誌
平成13年11月号〜

飾らない生き方が現代人の心を癒す

中井貴恵のVIP.seat

閉塞感に覆われたいまの時代を反映してか、いろんな分野で「癒し系」が求められている。 東大卒業後、ジャズの本場、ブルーノートでデビューライブを果たした鈴木さんは、 癒し系のボーカリストとして聴く人の心をなごませる。肩ひじをはらずに自然に生きる 彼女の存在感、生き方が多くの人々の共感を呼んでいる。

     福永一興=撮影
     両角朗子=構成

鈴木重子(すずき・しげこ)
ボーカリスト。1965年静岡県生まれ。90年東京
大学法学部卒業。東大在学中、司法試験の勉
強の傍ら、ジャズ、ボサノバを本格的に始める。
卒業後、ジャズクラブを中心にボーカリストとし
ての活動を始め、95年ファーストアルバム「プ
ルミエール」でメジャーデビュー。同年、日本人
ボーカリストとして初めてニューヨークのブルー
ノートでデビューライブを行う。昨年、リリース
したアルバム「ジャズト・ビサイド・ユー」で2000
年度日本ゴールドディスク大賞部門賞を獲得。
この9月にはオリジナル曲や日本の美しい曲
を収めた「マイ・ベスト・フレンズ」をリリース。




中井貴惠(なかい・きえ)
女優、エッセイスト。1957年東京都生まれ。78年
早稲田大学文学部在学中に市川崑監督「女
王蜂」のヒロインに起用されデビュー。87年に結
婚、2年間米国ニューハンプシャー州で暮らす。
98年からボランティアグループ「大人と子供のた
めの読みきかせの会」を始めている。現在、2女
の母。著書に『貴惠のニューイングランド物語』
『父の贈りもの』『赤毛のアンを探して』など。


 小さいころから人と競い合うことが苦手

中井 鈴木重子さんの場合、ボーカリストの前にどうしても”東大法学部出身”という 枕詞がついて回るを思うんですが、抵抗はありませんか。
鈴木 私自身にとってみれば、これまで生きてきた道は自然な積み重ねの結果ですから 特別なことでも何でもないんですが、やはりボーカリストの経歴として皆さんが 興味を持たれるのはもっともだと思っています。
中井 お見受けしたところ、とてもおっとりとされた感じですが、小さいころは どんなお子さんだったんでしょうか。小学生の女の子を持つ母親としては、そのへんを じっくり伺って参考にさせていただきたいと思います(笑)。
鈴木 両親の話では、すごく静かな子どもだったらしいですね。幼友達にも「しゃべり方は 昔と全然変わらないね」とよく言われます。
中井 子どものころからいまのように、ゆったりとお話しなさっていたんですね。 子どもって、普通はうるさいくらいにキャアキャアしゃべりますから、めずらしい 存在だったかもしれませんね。
鈴木 そうなんです。小学生のころ、給食の時間が終わり机を片付け始めても、 私ひとりだけ延々と食べていたんです。

中井 わかるような気がします。勉強がよくできる優等生だったんでしょうね。
鈴木 うーん。勉強は、無意識のうちに頑張ってやっていましたね。その延長で 東大に入学したという感じなんです。小さいころからお稽古ごとをやったり、 学級委員長だったりしたので、私の中に「いい子はこういうふうにあらねば ならない」という考えがきっちりとあったんでしょうね。人から見ていい子で あるっていうことに重きをおいていたところがあるので、とても分別くさい 子どもだったと思います。
中井 私、一度でいいからそういう子どもを持つ母親になってみたいわ(笑)。 母親って不思議なもので、子どもが生まれた直後は「元気でさえいてくれたら いいわ」と思うんですけど、その子が学校に行き出すと、「やっぱりいい成績 をあげてほしい」とか「水泳もできたほうがいい」って、どんどん期待が 膨らんでいくんですよ。
鈴木 おそらく、私の母にも同じような期待があったと思うんです。母の学生時代の 友人はいまでもキャリアを持って仕事をしている方が多いので、母は私に キャリアのある女性になってほしいと思っていたんです。小さいころから母に 「大きくなったら何になってもいいのよ。お医者さんになってもいいし、 弁護士でも裁判官でも、何でもいいのよ」ってよく言われたんです。
中井 あら、普通、母親はそういうとき、もっと身近な職業をあげて「何になっても いいのよ」って言うんですよ(笑)。
鈴木 私は周囲が期待することを一生懸命やってきたんですね。すごく不器用だから、 みんなに褒めてもらうと、行けるところまで頑張って突っ走ってしまうんです。 それで、あるところでバランスがとれなくなってしまうんです。
中井 それはいつごろのことですか。
鈴木 東大に入ってからです。入学した当初、「これでもう勉強しなくていいんだ。 あとはのんびり暮らせばいいわ」と思っていたんです。ところが入ってみると、 全員が自分と同じかそれ以上に勉強のできる人ばかりで、また熾烈な競争が 待っていることがわかってきたんです。
中井 そうでしょうね。
鈴木 私はもともと競争するのがとても嫌いな性格なんです。バスケットボールなんて 本当に苦手だったんです。「どうして人からボールを奪おうとするんだろう。 もっとみんなで譲り合ったらいいのに」と本気で思っていたんです。
中井 司法試験は三回挑戦されたんですね。
鈴木 はい。ほかになりたい職業がとくになかったんです。それに弁護士になろうと 思ったのも、早起きして毎日会社に行くのは辛そうだし、職場の中で競争しなくちゃ いけないのは嫌だなと思ったんです。でも、こういうあまい動機だとやっぱり 司法試験には受かりませんね。

 答えのないジャズの世界に安らぎを感じる

中井 そのころはもう歌手として活動していたのですか。
鈴木 大学には六年間いたんですが、五年目のときから歌い始めて、だんだん ボーカリストの道に入っていったんです。大学に入ってからはずっと、人が期待することを やってきた自分と、それが苦しいと思っている自分との間に葛藤があって、母とよく電話で そういう話をしたんです。両親にしてみれば、何も東大出て歌手にならなくてもという 思いはあったと思うんですよ。でも、母もだんだん私が司法試験の勉強に向いてない ことがわかってきたんだと思います。そういう意味では母と二人で将来の道を探した ような気がします。

中井 本格的に音楽の世界に入ったきっかけは何だったんですか。
鈴木 始めは大学のサークルのバンドで、スティービー・ワンダーやホイットニー・ ヒューストンといった有名シンガーのナンバーを歌っていたんです。でも、そこで歌って いるうちになんだか苦しくなってきたんです。どうしてだろうと考えたときに、 「だれだれみたいに歌おう」としている自分に気が付いたんです。ジャズの世界 というのは全員が自分らしさを出して、それが全部マルなんです。それまで私がずっと 生きてきた学校の勉強というのは、正しい答えに向かって努力をしなくちゃ いけなかったので、正解のない世界というものがとても新鮮で、楽に感じたんです。 本来の自分に帰ってもいいんだっていう安心感を持てたんです。
中井 お話を伺っていると、やはり鈴木さんは根本のところで、何かを追及する心をお持ち なんですね。
鈴木 どこかに向かって走ってしまいやすい性格ですね。その方向さえ間違わなければ いいんですけど、方向がちょっとでもズレると、突っ走る分ズレも大きくなってしまう んです。ですから、私は無理しないで適当にできる人っていいなと思うんですよ。
中井 そういう見方もあるんですね。その後、ニューヨークのブルーノートでデビュー されたわけですけど、これはすごいことですよね。
鈴木 九五年、三〇歳のときなんですけど、ニューヨークにレコーディングに行ったとき、 そのお披露目としてブルーノートで歌うことができたんです。ブルーノートでは、 火曜日から金曜日までは本当にジャズの神様みたいな人たちが出演するんですけど、 月曜日はブルーノートが推薦する新人を紹介する「マンデー・ナイト」という コーナーがあって、私はそのステージに立つことができたんです。
中井 なんと言ってもジャズクラブの本場ですから緊張なさったでしょう。
95年、ニューヨークのブルーノートでデビューライブを行う 鈴木 ステージにあがるまではずっと「ウソでしょう」と、あまり現実感がなかった んです。私はボーカリストになったとき、好きなことをやって食べていけるだけの お金があったらそれだけで十分だと思っていたんです。ですから、初めての レコーディングのときとか、ブルーノートのステージに立ったときなど、「私は いったいここで何をやっているんだろう」と思う瞬間がありました。
中井 自分で自分の現実について行けないときってありますよね。
鈴木 なんだかわからないけど、目の前にあることを一生懸命やっていて、気が付いたら とんでもないことになっていたというのは、大学に入ったときも同じでした。でも、 ブルーノートのステージでは「どうしよう」と思うと同時に「あっ、これってすごく 楽しいことかもしれない」って心底思ったんです。
中井 やはり自分が楽しいと思えないと長続きしませんよね。いま、ニューヨークには どのくらい行かれているんですか。
鈴木 レッスンやレコーディングで、年に多くて二ヶ月ぐらいですね。あとは日本で 活動しています。

 心の中にある枠を外していきたい

中井 鈴木さんは最近は日本の歌も歌われているでしょう。五枚目のアルバム 「ジャスト・ビサイド・ユー」の中に「ふるさと」が入っていたのがすごくうれしかった。 いま、こういう歌はあまり歌わないでしょう。日本にはこんなステキな曲があるんだって いうことを、多くの人に知ってもらいたいですよね。
鈴木 私はジャズを中心に英語で一〇年間歌ってきましたけど、最近は日本語の響きの美しさに とても惹かれるんです。日本人だからこそわかる言葉の癒しみたいなものがあるような気が します。
中井 日本人の持っている大切なものがいまはどこかに行ってしまって子どもたちにそういうものを 伝えていくのは難しいなと思います。

鈴木 今年の九月に出したCDは「マイ・ベスト・フレンズ」というタイトルなんですが、 喜納昌吉さんの「花」や「浜辺の歌」などを入れているんですよ。
中井 ご自分で選曲されるんですか。
鈴木 基本的には自分で選んでいますし、自作のオリジナルも 何曲か入れてます。
中井 最近、ジャズ・ボーカリストという肩書からジャズを外してらっしゃいますね。
鈴木 日本語の歌にもどんどん惹かれていっていますし、自分の中からジャンルみたいなものを 取り外していきたいと思うようになったんです。
中井 本来、音楽には明確なジャンルなんてないんでしょうね。絵本だって子どもだけのものでは ありません。よく子ども向けの本に「小学校○年生向き」と書いてあるのを見ますけど、あれも おかしいと思います。
鈴木 何についてもそうですが、「そんなふうに枠をはめて考えなくてもいいのに」と思うことは ありますね。
中井 鈴木さんは、よく”癒し系のボーカリスト”と紹介されますが、それほど聴く人の心をホッと なごませてくれるところがあるんですね。日本の歌を歌われると、ますます癒される人は増えると 思いますが、ご自身、人を癒そうという意識はお持ちですか。
鈴木 そういうことを意識したことはないですね。ただ、ステージに立っていると、その空間がとても 温かいなという感覚はあるんです。私はだれかを癒そうとして歌っているのではなくて、自分が 幸福だったり心地よいように歌っているんです。自分がとてもオープンになっているときには、 自分の中にあるいろんなものが気持ちよく会場の皆さんに伝わって、同じものが返ってくるんです。
中井 ライブの魅力ですね。
鈴木 たとえば、お客さんの拍手ですね。私は動作がのんびりしているので、ゆっくりおじぎをするん ですけど、私が頭を下げている間はずっと拍手をしてくださって、ゆっくり頭を上げたところで 拍手がピタっと止まるんです。しかも、私が元気いっぱいの歌を歌うと元気な拍手。深くて静かな 歌を歌うと、同じように深くて静かな拍手をくださるんです。こんなふうにコミュニケーションが よくとれているときというのは、お互いの気持ちの中にあるいろんなものがステージの間を行き来して、 お互いにリラックスして気持ちのいい空間が成り立っているんだと思います。それが”癒し”という 言葉として表現されるのかもしれないですね。
中井 こんなことを言うと失礼かもしれませんけど、鈴木さんの歌を一日中聴きながらほかのことを していると、とても心地がいいんです。
鈴木 ありがとうございます。うれしいです。

 わき起こる感情の波とうまく付き合う

中井 鈴木さんのファンって、どんな方が多いんですか。
鈴木 特定の層に片寄っているということはありません。若い女性も多いですし、三〇〜五〇代の 男性もいます。そうかと思うと、母と同じ五〇〜六〇代の女性もいらっしゃるんですよ。
高校時代はフュージョンバンドでベースを担当していた
中井 ファンの方は、鈴木さんの歌を聴いてどんなふうにおっしゃるんですか。
鈴木 さっき中井さんが言われたように、私の歌を聴きながら何かをすると、とても気持ちがいいとか、 心が楽になったとかはよく言われますね。たとえば、寝たきりの母親を介護されているお嬢さんが 「いつも母とふたりで聴いています」と言ってくださったり、引きこもりの方が家でずっと私の CDを聴いてくださったり、会社から疲れて帰ってきて、お酒を飲みながら聴いてくださったり、 本当にいろいろな聴き方をされているようです。
中井 やっぱり”癒し系のボーカリスト”なんですね。読売新聞に連載されていたエッセー「そよ風と ハミング」を拝見しましたが、鈴木さんって、生活そのものがゆったりとしていて、物事に対する 視線がとっても大らかで優しいんですね。何かにすごく腹を立てたり、怒ったりすることはないん ですか。
鈴木 怒りがまったく起きないかというと、そんなことはないんですけど、人の感情って鵜飼いの鵜 みたいなものだと思うんです。いろいろある感情の中で、怒りの鵜をグッと引くと本当に怒っちゃう ので「まあいいから、おいしいものがこっちにあるからおいでよ」ってちょっとだけ引いて少しずつ バランスをとって、その怒りを「よしよし」となだめるんです。
中井 うーん、むずかしい(笑)。
鈴木 わいてきた怒りをどうするか、人は選べると思うんです。怒りがわいたからといって、必ずしも 怒鳴ったりプンプンしたりしなくても、自分の中にわき起こった怒りを優しい目で見ることは できるんじゃないかって思うんです。怒りを人にぶつけて、うまく相手が受け入れてくれれば いいですけど、そうじゃなかったら、どんどん関係はひどくなって、回復するのがむずかしいと 思うんです。

中井 将来、お子さんが生まれたら、そのお子さんはきっと幸福だと思います。
鈴木 ただね、こんなふうにしていると、どうしても自分の中に怒りや悲しみが溜まってしまうみたい なんです。時々公園に散歩に行ったりして大きな木に手を当てていると、「そうか、私はほんとは すごく悲しかったんだ」ということに気が付いて、しばらく泣いてしまうこともあるんです。でも、 そうするとまた自分の中がきれいになって、普通に暮らせるみたいなことはありますね。
中井 実践したら楽になりそうですね。鈴木さんの考え方はキメ細かいっていうのか、深いんですね。 少なくとも雑ではないですよね。
鈴木 雑にならないように気を付けてはいるんです。たとえばコップを持つときも、雑に持つよりは 丁寧に持った方がコップも気分がいいと思うんです。
中井 私も長いこと生きてきましたけど、そんなふうに考えたことないです(笑)。なんだか私、 わかってきました。鈴木さんの歌が人を癒すっていうよりも、そういう考え方、感じ方をする 鈴木さんが歌う歌だから、聴く人に伝わる”何か”があるんじゃないかしら。
鈴木 ありがとうございます。私自身の究極の癒しはコンサートで、ステージが一回終わるごとに 楽になるんですよ。

 自然な生き方が聴く人の共感を呼ぶ

中井 以前、朗読コンサートをなさったでしょう。そのビデオを拝見したんですけど、すごくゆっくりと 絵本を読んでいてよかったですよ。私も絵本の読み聞かせのボランティアをしているんですが、 ゆっくり読んで、聞いている人を飽きさせないのはむずかしいんです。
鈴木 私はゆっくりとしか読めないんです(笑)。
中井 歌だけではなく、女優として映画にも出られたんですよね。
鈴木 はい。九八年に『火星のわが家』という、家族の絆を描いた作品に出演したんです。ニューヨークで 活躍していた歌手が、ちょっとメンタルな問題で声がでなくなって日本に戻っているという役 でしたから、自分に近かった分、苦労は少なかったと思います。


95年のニューヨークでのレコーディングは「とても楽しい思い出だった」という 中井 初めての映画はいかがでしたか。
鈴木 楽しかったですよ。
中井 初めての映画で楽しかったと思えるなんて幸福ですよね。私は父が俳優だったことがきっかけで 映画の世界に入ったんですけど、最初は毎日撮影から帰ってお布団に入ると涙が出てきちゃうんです。 お芝居が楽しいと思えるまですごく時間がかかりました。
鈴木 歌うことと、演じることには似た感覚があるんだと思います。ただ映画の場合は、役柄、台詞、 演技などいろんな要素が複雑に絡み合っていてむずかしいんだけど、そこで自分をどう表現するか ということが、とても魅力的に思えたんです。
中井 今年の九月には初めて本を出版されたそうですね。
鈴木 はい。『天使のいる星で』というタイトルで詩とエッセーの中間みたいな本なんです。とても ステキな絵を付けていただいて、すごく幸福です。
中井 お話を伺っていると、鈴木さんにとって弁護士の道を諦めたことは残念だったのでしょうが、 音楽を中心とした活動を通じて多くの人たちに幸福なひとときをもたらすいまの自然な生き方の方が 鈴木さんらしくて、とてもステキだと思います。これからも頑張ってくださいね。



〜平成13年10月20日 土曜日 静岡新聞 夕刊〜

初のエッセー集出版

ジャズボーカルの鈴木重子
感謝の気持ちつづる

 鈴木重子がこのほど、初のエッセー集「天使のいる星で」(講談社)を 出版した。日々の生活の中で感じたこと、考えたことを、虫や鳥、 天使や神様、カフェで座った木のテーブルなどと会話する形でつづっている。 全編に、「この世にあるすべてのものに感謝する気持ち」を貫いた。 九五n、一六〇〇円。
 今回のエッセー集には約三十点を収録した。歩く、食べるという何気ない 動作を通して、「確かに自分は生きている」と実感した瞬間や、 「どういう生き方を選んでも、それぞれの道にそれぞれの幸せがある」と 思い至るまでの前向きさを、優しい言葉で表現している。台所のゴキブリに、 「(自分からは離れた)遠い場所で幸せになって」と話し掛ける作品などもある。
 鈴木の後援会のメンバーは、「重子さんの人柄そのままの、ほんわかした エッセー。読むと心がいやされます」とPRしている。



〜平成13年8月20日 月曜日 サンケイスポーツ〜

「大河の一滴」テーマ曲を鈴木重子が歌う

 東大卒の美人ジャズシンガー、鈴木重子(三五)が、9月1日公開の映画 「大河の一滴」(神山征二郎監督、東宝配給)のテーマ曲を歌うことが決まった。 同5日発売の「ア・ドロップ・オブ・ウォーター」で、きょう20日から同映画の CMソングとしてオンエアされる。
 以前から鈴木の歌声を気に入っていた原作者の作家五木寛之さん(六八)が直接オファー して実現。同曲は映画のクライマックスを盛り上げるインストゥルメンタルの ボーカルバージョンで、これまでアルバムしか発売していない鈴木にとっては、 初シングルとなる。
鈴木重子は美声で注目映画の宣伝を担当する。

バックナンバー (平成12年 12月 1日 〜 11月 28日)